トイレの個室

書きたい人が書き、読みたい人が読む

「Gossip Club」と「Shots」に見る男女の性的優位性の違い

要望があったので、以前twitterで呟いたことをまとめてここに転記、追記する。

 

デレステの2019年のイベント曲「Gossip Club」とそのオマージュ元である「Shots」(LMFAO ft.Lil Jon)を比較する。

youtu.be

youtu.be

まず、大槻唯らセクシーギャルズは、ギャルについては門外漢である私から見れば、「白ギャル」や「age嬢」に分類されるが、これらが活躍した2000年代(特に後半)はLMFAOの活動時期(06-12)と重なる。「Shots」がリリースされた2009年はまさにage嬢の全盛期だ。

「Gossip Club」は曲のサウンドだけでなく、歌詞の内容もShotsのそれを踏襲している。それは、「自身の魅力(性的なものも多分に含む)が異性を虜にする」というナルシシズムである。

2曲でそれぞれ繰り返し歌われる'shower'と'shots'は共に「浴びる」ものだが、流れる場所は身体の外/内と対照的だ。 この流れる液体を精液と見立てよう。男が女に中出しする、つまり生殖を許されることで、男の性的な優位性は示されるのに対して、女は男の生殖の誘いを断る、或いは中出しさせないことで、自身の優位性を示そうとする。 これらの性的優位性はそれぞれ、ヤリチンと処女という言葉で表しても良い。同じ内容を扱いながら、性における男女の違いが'shower'と'shots'に表現される。

 

しかし、両者のMVに対する態度は全く異なる。 「Shots」は、プールやクラブで酒と女に囲まれる、如何にもパリピらしく豪勢で猥雑な様子だが、「Gossip Club」はクラブで踊る3人のギャル以外は何も映らない。2つの映像を比すれば、後者にもの寂しさすら感じてしまう。

これは、「酒と女が無ければ己の男らしさも誇れないのか」という「Shots」への批判として受け取ることもできる。 ただ同時に、画面から男を排除することに、ミサンドリーを嗅ぎ取ってしまう。無論、その点においてこの曲が非難される謂れはないが、個人的に指摘せずにはいられない。

それはさておき、「Gossip Club」の方法がオタクを救うものであると私は言いたい。 「Shots」と同様なMVを作ろうとするならば、彼女らの周りにグッドルッキングガイを侍らせればよいが、そうすると彼女らの隣にいるべき男のタイプが決定してしまう。そのタイプに当て嵌まらない多くのオタクたちは画面の中から追放されるのだ。

画面に男を描かないことで、イケてないオタクも含めた全ての男がこの曲を楽しめる。更に言ってしまえば、男に限る必要はなく、女も合わせて「世界中」が対象になり、「You're on fleek!!!」となる。

 

ちなみに、曲最後の'shower'を繰り返すパートの振り付けも素晴らしい。 埃を払うような動きは、サッカーのゴールパフォーマンスでも見られ、ゴシップやジンクスを振り払う意味がある。これはシャワーで身を洗うということと親和性が高い。

『竜とそばかすの姫』についてのメモ

『バケモノの子』で細田守を信頼できなくなったのでどうしても身構えて鑑賞してしまって、まぁうーんという感じ。悪くはないけど良くもないみたいな。(追記:言い方が正確ではないので言い直す。悪い所もあり良い所もあり、総合すると心に残る映画ではないという評価。)

 

U、ネット世界の描き方が古いっていうかウォーゲームから変化してなくない?「ネットの声」は(実際のそれも非常に不愉快ではあるが)聞いていてむず痒くなる。

 

虐待の解決があっさり過ぎてリアリティがない。実際の地名を出しておいて現実世界での問題をそんなに簡単に扱われてしまうと、えぇ。それで鈴が成長したと言われてもねぇ。あれが作中で1番のファンタジーだよ。

 

美女と野獣オマージュが過ぎてパクリと言われても仕方ない。ベル、野獣、ガストンが出てくるし、ディズニー・アニメーションを語る上で外せない伝説のダンスシーンはまんまやったし。

たしかに、『美女と野獣』のルッキズムに囚われない真実の愛、市民のエゴイスティックで行き過ぎた正義感というテーマは現代のネットに応用できる。「野獣の変身解けた姿受け入れられない」問題は『竜そば』では美女もアバターを脱ぐことで良くまとまってると思う。

しかし、この「本当の自分」観についても古臭く感じる。

ベルが鈴になって「普通の女の子」じゃねーんだよ。結局そういう見方をしているし、そばかすの制服女子高生は「普通の女の子」の記号なんかってね。

 

井上俊之カリスマのパートは確信ないけどカミシンの河川敷と駅のシーンかな。ベルが鈴になってUの世界で歌うシーンこそカリスマが作画して欲しかった。何の為に手法を変えてると思ってんだよ、ってツッコんだ。

 

細田守がよくやる河川敷で横からロングで映すやつは今回も何度も出てきたが、それをカヌーで川を登るカミシンのカットは興奮した。あの構図に批判的な印象深いカットだ。

 

追記

アバターに人間のものと動物のものがあるのバランス感覚悪いよ。それもアバターは一人一つで決められたデザインを選択する仕様なら尚更。

 

長尺の日常芝居カット等では演出家細田守の良さが出ていた。

 

このレヴューは自分の思ったことをうまく言語化してくれている。

https://jp.ign.com/ryu-to-sobakasu-no-hime/53430/review/

細田作品に印象的な入道雲は『竜そば』にも出てくるが、その映し方は疑問に思うものだった。あのシーンは作品の座りの悪さを象徴している。

 

序盤の鈴の登校で階段を降りるカット、少しずつ鈴がカメラに近づくにつれて目が点だったのが情報量を増やしていくのに感心した。

 

インターネットにおける分断が強調された現代の視点で見ると、bellが同時接続1億人のライブを行うのには疑問がある。

『ジョゼと虎と魚たち』を見た

鑑賞後、時間が経つほどに良い映画だったなあと思う作品。

 

(ネタバレします)

 

世間知らずのジョゼの成長は作品の主題の一つであり、序盤の彼女は浮世離れした人物として描かれる。それを支えるのが、お伽話的要素である。

 

ディズニープリンセス

家に閉じ込められ(夜の散歩はあったが、作中で禁止される)老婆に育てられた少女が男に連れ出される、と物語のプロットは『ラプンツェル』のようだ。チヅが「外の世界は猛獣だらけ」と脅すところは正にゴーテル。猫のユキチもパスカル的位置付けだし、二人とも絵も描くし。

あるいは、動物と話ができる(ように見える)閉じ込められた娘としてシンデレラも想起するし、読書家であるところはベルっぽい。人魚になる空想シーンにアリエルの姿を見ても良い。

ディズニープリンセスといえば、積極的行動を取らない受け身の人間というステレオタイプがある。社会に溶け込めないジョゼはまさにそのイメージを体現する。

ラプンツェルはそのようなイメージを打ち破るプリンセスであるからこそ、『ジョゼ』も同じような構図を取る。

 

天照大神

山村宅には「天照皇大神宮」のお札が柱に貼られていた。

天照大神と言えば、天岩戸神話が有名だ。この神話と『ジョゼ』は細部に差異はあれど、共通して閉じこもった女性を外の世界へ連れ出す物語である。

 

黄泉比良坂

ジョゼと恒夫が出会い、また結ばれる場所である坂から黄泉比良坂を連想した。黄泉比良坂が現世と黄泉の境界であるように、作中の坂も隔たりのあるジョゼと恒夫の世界を繋ぐ場所として象徴的に機能している。

イザナギは坂でイザナミに姿を見るなと言われながら見たために二人は離別する。このような見てはいけないものを見ることで悲劇が生じる話は「見るなの禁」と呼ばれる。

 

見るなの禁

「鶴の恩返し」を筆頭に、日本の昔話において見るなの禁を犯された女性は去るか逆に襲いかかるか、いずれにせよ幸せな展開にはならない。

ジョゼもまた恒夫に彼女の部屋を見るなと言い付ける。しかし、恒夫はあっさりと部屋を覗き、それを知ったジョゼは恥ずかしがるものの二人の関係は悪化しない。むしろ秘密を共有することで親密になり、物語も進展する。

「見るなの禁」は他所から嫁いで来た嫁の心理の象徴であると私は考える。旧来の嫁は悩み事などを心に秘め、家にいながらどこか疎外感や孤独感があっただろう。それが現代においては「嫁と婿家族」という家庭内の構図が「嫁と婿」という形に変容した。現代の恋人の間では秘密は無い方が良いのである。

 

竜宮城

ジョゼと恒夫の出会いから恒夫がバイトを頼まれるまでの流れに昔話の突飛さを感じて私は好きだ。例えば、初期の浦島太郎物語は舟の上の浦島太郎のもとに海から乙姫がいきなり登場して求婚する。これが荒唐無稽で良い。

山村宅は光GENJIのポスターが飾られるなど、内装が古い。チヅの趣味がそのまま残されていて、時間の流れが止まっているように思わせる。恒夫にとっては高いバイト代が貰えることも含めて、あそこは竜宮城のような場所だ。

 

 

 

作品後半でジョゼが自立してくると、このようなお伽話の要素が消え現実と向き合わされるのが、脚本としては妥当だと思うが、個人的に少し残念だった。(本当に個人の感想です。)

 

その他雑感

・レイアウトも画面の仕上がりも良かった。何よりシネスコなのがたすかる。やりたいことが伝わる。

・舞、君は負けヒロインとしてやるべき事をやり、負けるべくして負けた。拍手喝采。あまりの負けっぷりに劇場で震えていた。

・ジョゼが人魚の夢を見るシーンは海の文字通り底知れない恐ろしさが描かれていない。しかし、海を知らないジョゼの空想なのでこれはこれで良いのだろう。

・あの坂を見ると国立駅北側を思い出すが大阪にもあの地形があるのか。あれだと台地の上に川が通っていることになるがそういう場所があるのか。それを確かめるために聖地巡礼してみたいと思った。

・チヅが突然死んだのが良かった。

・ジョゼの部屋の美術設計は足が動かない人の生活を感じる。

・海に行ってジョゼ担いではしゃぐシーンはアニメーションが良くて感情が乗った。

・ジョゼが恒夫との思い出をフラッシュバックするところ(どの場面か忘れた)でウッと来た。

 

孤独な者たちの恋愛というテーマが個人的な経験にちょっとぶっ刺さったので、この作品のことは何度も思い返すだろう。

 

山を見るなら遠くから

天気が良いので富士山が見えそうだ。名古屋出身者が愛知からは富士山が見えないと言った。

短い半生のほとんどを首都圏にいた私にとって富士山は西に小さく見えるものという観念が固定していたことに気付かされた。富士の麓まで行って山肌がわかるほど近づくときは、富士山に乗っている感覚があり全く異なる意識で見ている。私の日常における富士山の見方はただ一つだ。

 

気になったので調べた。

富士山が見える場所はどこまで?標高データから解析! | 宙畑

 

何も驚くべきことは書かれていないが、伊勢から富士が見えることには何か"力"を感じる。宗教的な、あるいは、政治的な力を。

すると、伊勢参りをする者が富士に見守られながら東海道を歩き、三河あたりで見えなくなった富士山を伊勢で再び目にすることができると思うと感動的だ。

 

然るに、関西は富士山が見えないからダメだ。特に京都は盆地でチマチマやってるから性格が歪むんだ。

モンブランが好きだった

子どもの頃、実家で誕生日や記念日に買ってきたケーキの詰め合わせの中から私はいつもモンブランを選んだ。モンブランに強い憧れを抱き異常なほどハマっていた時期があった。

それを親は覚えていて、今でもケーキを買うときは私のためにと必ずモンブランを入れてくる。私はあの頃のモンブランへの情熱を既に失ったので、困る。

私はモンブランを選ぶことを期待されてケーキに手を伸ばす。そこに4つケーキがあっても、私にとってはモンブランモンブラン以外かの二択だ。期待に従って、あるいは、期待に反して手に取ったケーキの味はいずれにせよ十分に楽しめない。

このことで親に不満を言いたくなる気持ちもあったが、ことの原因は私がコミュニケーションで手を抜いてきたことにあると気づいて何も言えなくなった。

きっと、私がモンブランを素直に美味しく頂くことはもうないだろう。

蝋人形に一目惚れしかけた

とある博物館に入って最初の展示で思わず足を止めた。それは氷河期の人々の生活を模型で再現するもので、精巧な蝋人形の顔に目が釘付けになった。

顔が良い…

特別美形にできているわけではない、どこかで見たことがありそうで初めて見る顔から視線を外せずにいた。遠い昔でその人がどのように生きていたのか、何を思っていたのか、それまで考えたこともなかったことを考えたくなった(そこにいる"人"は生きたことなどないのに)。

数秒間眺めて私の中に生まれた好奇心が恋心に変わろうとしたとき、自分が人間であることを思い出してそれを諦めることができた。

 

他人の身体に対して普段は興味と恐怖を同時に感じる。それが動かない人形となると恐ろしさは一切なく、棺の窓から故人の顔を見るような安心感があった。魂のない身体は私の何をも脅かさない。

人形が私を見ることはない。

私が人形に見られることもない。

ウルフウォーカーを見て

いまは時間があまりないので、メモとして『ウルフウォーカー』の感想を書き殴る。(気が向いたら後で手を加えるかも)(ネタバレ有)

 

 

まず、傑作であることは間違いない。アニメーションの技術も物語の構造も、さすがカートゥーンサルーンで高クオリティ。終盤はずっと泣きそうになりながら見ていた。

 

ざっくり言ってしまえば、アイルランド版のもののけ姫だった。自然とそれを侵略する人間の対立が主題。『ソングオブザシー』の時も思ったが、サルーンは物語の要素をデザインに落とし込むのがめっちゃ上手くて、今回も対立的なデザインが各所で見られた。

以下それらを列挙。

 

・人間とウルフウォーカーのキャラデザ:前者は四角く直線的に、後者は丸く曲線的に

・家族構成:人間は父と娘、ウルフウォーカーは母と娘

・住んでる場所:(上2つに合わせて)町は直線的でロビンの家は父と娘のスペースが階層的に分かれている、森は曲線的でオオカミの巣は同心円状(娘は母の中で寝る!)

・光と色彩:人間は赤い炎、ウルフウォーカーは青い月(イングランド🏴󠁧󠁢󠁥󠁮󠁧󠁿とスコットランド🏴󠁧󠁢󠁳󠁣󠁴󠁿を思わせる)

 

話は飛ぶけど、炎の作画クソ良いよな。今まで見たアニメの中でも最高クラスですわ。

 

画で見る対立はこんな感じか。あとキャラの役割の対立として:人間は傷つけ、ウルフウォーカーは癒す(ウルフウォーカーが傷つけるときは仲間になる)

(※この話は前読んだ『昔話と日本人の心』に詳しく書いてあるので、後でそれを解説するかも)

 

 

対立の物語は大体ハーフの存在がいるんだけど、この話ではウルフウォーカーがそれかな。もっと言えば噛まれた後のグッドフェロー親子か。

この物語は自然界と人間界の対立を人間が自然側に同化することで解決した。いや、侵略の問題を根本的に解決はしてないか。でもまあラストの画面は分かりやすく同化を示していて、ウルフウォーカーになった4人が狼に囲まれひとつになる。

異なる存在の同化、ということで太陰太極図の構図が作中で何度か出てくる。ラストもそうだし、狼少女化したロビンとメーヴが森で戯れるときとか、母の傷を癒すときのロビンとメーヴとか。印象的だったのは、グッドフェロー親子の顔に横から光が当たって顔を二分するように影が落ちるシーンが何度もあった。そういうの大好きだから、見る度に興奮したよね。

 

 

アイスランドもののけ姫って言ったけど、約束が大きく意味を持つところや父親が秩序を重んじ過ぎるところが西欧的だなあ、と思った。

 

 

全体的にはもののけ姫だけど、森の中のシーンはトトロっぽかったね。あとディズニーのオマージュもいっぱいあった。

オオカミのアニメーションは普通にライオンキングだし、ロビンとメーヴの2匹が森で遊ぶところは完全にcan you feel the love tonight。(ライオンキングのあのシークエンスはディズニー史上最高のラブシーンだと思ってる)

終盤の森でのオオカミvs人間はライオンキングのハイエナ軍vsライオンみたいだった。それと美女と野獣の村人が城に攻め込むやつ的でもあった。

オオカミの棲家に繋がる道を蔦が覆い隠すとことか森のデザインはラプンツェルも思い出す。

 

 

 

最後に、作品とは関係ないけど、アップルのビデオロゴ初めて見たわ。あんなのあるんだね。てか、アップル映画にも手だしてんだね。

「印象」の印象派(デレステ考察)

 今回はデレステの現在のイベント曲「印象」について考察する。

 タイトルやmvを見れば分かるが、「印象派」という芸術運動をモチーフにした曲である。背景にはモネやルノワールらの絵画がこれ見よがしに置かれているが、mvのいくつかの点は彼らの理念にそぐわないように見える。


「デレステ」印象 (Game ver.) 白菊ほたる、浜口あやめ、三船美優 SSR

 まず、多くの印象派画家たちは、それ以前の画家が主にアトリエで制作していたのとは対照的に、戸外での制作を好んだ。しかし、「印象」でアイドルたちは美術室という屋内で絵画を描いている。

 アイドルたちが描くその絵はmvの最後に映し出される。そこに描かれているのは、各アイドルを象徴するようなモチーフだ。例えば、この曲のセンターである浜口あやめは忍者を自称するキャラクターなので手裏剣とクナイの絵がイーゼルに置かれている。この絵は全アイドルに個別のものが用意されていて、デレステのユーザーならば、それぞれがどのアイドルを表現しているか分かるだろう。

 

 19世紀後半フランスの芸術を支配していたアカデミーは伝統ある歴史画を評価していたのに対して、印象派の画家たちは世俗的な市民の日常風景をモチーフに選んだ。アイドルが描くモチーフは、そのような日常風景と呼べるものではなく、彼女たちのキャラクターを体現する記号である。受胎告知の絵画に白百合が描かれるように、浜口あやめは忍具を描くのだ。偶像的なアイドルの、ゲームキャラクターという虚構が、自身を象徴する記号を描く構図は実に歴史画の連想させる。

 

 では、逆にこの曲に印象派の思想を見出すことはできるだろうか。

 歌詞に着目すると、サビの

赤、青、黄色、白

知りたいよあなたの

色彩をすべて

笑顔の温かさ

透明な涙

隠し持った弱さも全部

 の部分は印象派絵画の技法を思わせる。混色をなるべく避け、大胆な筆致で絵の具をキャンパスにのせるように、人格を構成する要素をひとつひとつ取り上げている。このパートはボーカルとピアノ、ヴァイオリンと音の数を抑えている。これも音の重なりよりも要素としての音そのものを提示している。

橙、藍、緑、紫の彩り

溢れ出す光

混ざりあうように

確かめるように

あなたのこと、描くよ

 その次のパートでは先に挙げられた原色が混色されているが、ここでは単に混色したと見るよりも、同時対比などで色が「混ざりあ」ったように見えていると解釈すべきだろう。音を聞いてきてみても、前パートにキックとスネア、ヴァイオリンのメロディーが加えられて音の重なりが豊かである。また、mvではここから時間が夕方に変わる。昼と夜が混ざり合い刻々と色彩を変化させる夕方を描いた絵画は印象派に少なくない。

 このように見ると、この歌詞は人の個性を光や色彩に例えながら捉え、表現しようとしている、と受け取れる。また、「ように」や「みたいな」という直喩表現が多く、この曲は全体的に印象派の方法を比喩として用いていると見るべきだ。それでは、先述のmvの非-印象主義的な部分をメタファーとして捉え直してみよう。

 映像作品において、部屋という閉鎖的な空間は心の内を暗示することがある。そうすると、部屋の中で絵画を制作することは、心に焦点を当てそこに描くべき対象を見出すことを意味する。「あなたの隣」「二人きりの美術室」という歌詞から連想するに、とある人物と人間関係あるいはその人物と接して浮かび上がる感情を表現しようとしている。

 アイドルが自分を象徴するモチーフを絵に描くためには、自身を見つめアイデンティティについて考える必要がある。そうして、彼女たちのほとんどが自分を表すものとして日常的に目にするものを選択した。毎日のように見た"それ"が心に刻み込まれ、アイデンティティの一つとなったのだろう。印象派の画家たちは外界の日常風景を知覚や主観に任せて描いたが、アイドルたちは心象風景や主観そのものを対象にしている。これが「印象」から読み取れるデレステの「印象主義」である。

 

 最後に、室内での制作や歴史画からの影響という言葉を聞いて、私はエドガー・ドガを思い浮かべる。彼の絵画は印象派に分類されるが、印象派らしくない上記のような特徴を持つ。ただ、「印象」のmvについて語る上で最も注目すべき点は彼がバレエ、特にその舞台裏を描いた作品が多いことだ。ドガがそのような作品を制作していた時代のフランスのバレエは現代のものとは異なり、ロマンティック・バレエと呼ばれる妖精や悪魔が登場する幻想的なものであった。このバレリーナデレステのアイドルを比較すると、架空の存在であるキャラクターはまさに非現実の妖精のようだ。そして、その舞台裏と言うと、声優という演者がすぐに思いつく。しかし、ここはあえて「印象」がそうしたように、内的世界にそれを求めると、ユーザーの想像力がアイドルの存在を成り立たせていると言える。アイドルは私たちの心が見せる幻想なのだ。

 mvのラスト2カットでアイドルと絵の並びが反転する。アイドルを映したカットはイーゼルの高さにカメラを置き、逆に絵のカットのカメラはアイドルの目の位置に設定されている。つまり、映像の最後で私たちはアイドルと視線を共有するわけだが、そこに見えるものは、既に述べたように、日常的に見ることで心の中に自身を体現する記号として定着したものである。これと同じ現象が画面の外側でも起きていて、画面の中に映るアイドルは、これまでユーザーが何度も見ることによって自分のアイデンティティと半ば「混ざりあ」ってしまっている。だからこそ、アイドルたちは画面の外側に向かって「あなたのこと、描くよ」と呼びかけてくるのである。 

 

ちょぼらうにょぽみの声優イレブンの戦術的解釈

オタクはね、自分の好きな声優でサッカーチームを作るの!

サッカーを愛する者はベストイレブンを選びたがる。11人好きな選手を選んであれこれ考えながらピッチに並べる時間は極上の幸福感を味わせてくれるが、そこでシステムとして3バックを採用する人は少なくない。というのも、FWやMFのポジションの選手は魅力的であり、その選手をより多く選びたいという欲求を誰もが抱くからだ。ちょぼらうにょぽみもまた、この欲求に取り憑かれた者の一人である。

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あいまいみー』第3期で発表された声優イレブン

ちょぼらうにょぽみが選出した選手を見てみるとその3バックの特異さには驚きを隠せない。名実共に日本屈指のディフェンダーである茅野愛衣は身長に恵まれないながらも、圧倒的な戦術眼とリーダーシップでディフェンスラインを統率するその様は往年のフランコ・バレージを彷彿とさせる。その両脇を固める悠木碧竹達彩奈は純正のCBとは言えないだろう。むしろボールの扱いに長けたフィリップ・ラームやジョシュア・キミッヒのようなSBである彼女らを3バックに同時に起用することはちょぼらう監督の明確な意図が感じられる。このチームはボールを保持してボールを失ったらすぐにプレッシャーをかけて即時奪回する、ペップ・グアルディオラが目指すようなポジショナルプレーを原則として掲げつつ、それをさらに攻撃的に発展させようとしている。

現代サッカーにおいてボール保持をする上でGKの能力はとても大きく関わる。エデルソン・モライスやマヌエル・ノイアーとの類似性の高い井口裕香はこのチームを最後尾から支えるGKとして必要な条件を満たしている。相手のプレッシャーを受けても味方に確実なパスを出せる足元の技術が彼女の特徴だ。また、積極的な飛び出しで相手の攻撃を阻むプレーエリアの広さにも定評がある。前線からプレッシングをかけるこのチームは最終ラインの裏に大きなスペースが常に空いている。井口がこのチームの戦術を支えていることは明らかである。

このチームの魅力はなんと言っても世界的なタレントを多く擁する中盤だ。まずは花澤香菜。以前からその類稀なる才能は認められていたが、ここ数シーズンの成長によって狭いスペースでボールを持っても良し、カウンターの局面も1人でボールをゴール前まで運べる、長短の正確なパスで試合の展開を握る、とケヴィン・デ・ブライネもびっくりな完成度を誇る花澤はいまやバロンドール獲得を最も期待されている選手の一人だ。

花澤と2ボランチを形成する内田彩は決して足元の技術が高いとは言えないが、ちょぼらうがガットゥーゾと評するようにその献身的な守備は随一である。相手のパスをカットしたりドリブルに食らいついてボールを奪い取る様子はまさに"闘犬"であり、内田彩のピッチを縦横無尽に走るスタミナが尽きることはなく「ピッチに内田彩が3人いる」とまで言われるほどだ。

もう一人の内田、内田真礼は典型的なファンタジスタだ。10番を背負う彼女が前向きにボールを持てば、ゴールが生まれるという期待感を観客の私たちに与える。本人はサッカーよりも野球の方が好きなのではないかという噂や同じくプロ選手である弟との関係などピッチ外の話題が絶えない内田真礼だが、監督からは「たそ」という愛称で呼ばれていて両者の関係性の良さが伺える。

右のWBの本渡楓は11人の中で最も若いニュースターである。最近の活躍で2018年度の新人賞を受賞し注目を浴びる本渡だが、ちょぼらうにょぽみは何年も前から監視していた。このベストイレブンの選出自体2017年のものであり(何故2019年の今これについて書いているのか)、ちょぼらうが先見の明を持つことを証明している。まだプレーには荒削りな印象も受けるが、今後の成長に期待できる選手だ。

左WBの佐倉綾音はこのチームの戦術上最も重要な選手であり、監督に最も愛されている選手だ。スピード、テクニック、パワーを兼ね備え、ゴールとアシストを量産する佐倉はまさに左サイドの制圧者である。例えるなら怪我をしないバンジャミン・メンディ、あるいはトッテナム期のギャレス・ベイルのようだ。後述するか、佐倉のこの圧倒的な「個」がこのチームの戦術そのものである。

前線にはインザーギにも例えられる大坪由佳とチームのエース・上坂すみれの2人を並べる。このユニットは上手く役割が分担されている。大坪は裏抜けを狙ったりサイドに流れてボールを受けたり、ピッチを縦にも横にも積極的に走る。対して上坂は基本的に自分のポジションを離れず、ボールを引き出してポストプレーで味方を活かすかターンして前向きに自分で仕掛ける。しかし、上坂はロシアリーグでのプレー経験もあってか共産性の高さがプレーに影響しているのでは、と指摘されている。ムラのあるエースというのは一つのロマンではあるが…

 

選出された11人を見てきたが、実際このチームはどのようにプレーするだろうか。先述の通り基本はボール保持を第一に考える。ビルドアップの局面ではGKと3バックで相手のプレッシャーをいなしながらボールを前進させる。特に両サイドのCBの悠木と竹達はパス能力の高さもありながらドリブル能力に長け、彼女らがドリブルで運ぶシーンは何度も見られる。相手がGKまでプラスに行かない場合は3バックと花澤の4人で菱形を作りボールを回しながら相手のファーストラインを超えていく。

ボールを相手陣地まで運んだ後はパスを回しながら縦パスを通すための相手ブロックの隙間を探す。両WBはタッチラインいっぱいまで開き相手ディフェンスの距離感を広げる。この局面で特徴的なのは、左右で非対称なポジションを取ることだ。トップ下の内田真礼が右サイドに流れ、本渡と花澤とトライアングルを形成する。時にはCBの悠木が上がってきたり大坪が前線から流れてきたり、とにかく右サイドに人を密集させる。狭いスペースでも自由にボールを扱える内田真礼と花澤のおかげで密集地帯であっても相手にとってはボールを奪うことは容易ではない。そうして右サイドに人を集めると必然的に左サイドに広大なスペースができる。スペース的にも時間的にも余裕が与えられた佐倉綾音は誰にも止められない。サイドチェンジでボールを受けた佐倉はカットインからのシュート、縦にドリブルしてからクロスなど自身の高い能力を発揮する。また、ドリブルが難しければトップの上坂とのワンツーで局面を打開する。佐倉と正対するディフェンダーはいくつもの選択肢に迫られ、これまで数多くの者が佐倉にやられてきた。

ディフェンスに関しては何度も言ってきたようにハイプレスが特徴だ。基本的に2トップで相手CBにパスコースを限定しながらプレスしWBが相手のSBまで出かけてプレッシャーをかける。相手チームがアンカーを置くシステムの場合は内田真礼がほとんどマンツーマンで対処する。中盤にはボール奪取能力が高い内田彩がいるので、前線の選手はその場でボールを奪えなくとも相手が苦し紛れに出したパスを予測していた内田彩が回収してくれる。

攻撃的過ぎるディフェンスラインはボール保持の場面では大きな利益を生むが、どんなチームも試合中常にボールを支配できるわけではなく、守備の場面では弱点となる。3人とも身長が低く、決してフィジカル的に優れているとはいえないのでロングボールやクロスを弾き返すことが難しい。また、全体を見てもフィールドプレイヤーの平均身長が155.6cm(wiki調べ)、FWの2人以外の平均は153.75cmと20代の日本女性の平均身長157.5cmと比べると低い(ちなみに2016年のなでしこジャパンの平均身長は162.8cm)。ボール保持を得意とするチームはセットプレーや空中戦に弱いという傾向があるが、このチームはその顕著な例である。

また、過激な采配が話題を呼ぶちょぼらうにょぽみ監督はビハインドで迎える後半35分あたりで突如それまで大事にしていたボールを放り捨てる。両WBを前線まで上げて相手の最終ラインに人を4,5人並べ、そこにボールを蹴りこむというアントニオ・コンテが好む手法を使う。この時ロングボールの供給源である花澤は最終ライン近くまで落ちるので、中盤は内田彩一人に任されることになる。ちょぼらうはこのようなリスキーでチームの哲学にそぐわないような方法を採用することを恥じない。周りがどんなに批判しようと、処女厨でありながら自身は非処女であるという非論理の権化のような存在である彼女の耳にはそれが届くことはない。

 

以上がちょぼらうにょぽみ選出の声優イレブンの特徴である。声優イレブン界隈のパイオニアであるちょぼらう氏の功績は非常に大きいにも関わらず、日頃の奇妙な言動のせいかそれが論じられることはこれまで少なかった。これを見たアナタも自分の声優イレブンを作ってみてはいかがだろうか。

ペップ・グアルディオラが考えてることについて考える

CLはリヴァプールの優勝で幕を閉じ、欧州サッカーの18/19シーズンが終わった(ミランは今年もCL出場権を得られず…)。CL優勝候補筆頭と目されていたペップ・グアルディオラ率いるマンチェスター・シティはまさかのベスト8止まり。それでもリーグではありえん強さを発揮してリヴァプールとの優勝争いを制した。今回はそんなペップの哲学について考えたい。

 

先日、サッカーの面白い分析をこころがけている、らいかーるとさんが本を出された。面白そうなので読んでみたいが、積ん読を得意とする私の性質が待ったをかける。とりあえず目次を見てみると

「アナリシス・アイ」発売まであとちょっと!「目次」を公開します(・∀・)ってか、もしかしたら今日から店頭にあるかもってさ(*^^*) - サッカーの面白い戦術分析を心がけます 

第1章 サッカー再考〜「時間」「スペース」「配置」「選手」〜

ふむふむ。

サッカーの歴史にパラダイムシフトをもたらしたヨハン・クライフアリゴ・サッキの2人はサッカーについて語るとき共に「スペース」と「時間」に言及した。私たちも現実世界について考えるときに空間と時間に注目するので、これは分かりやすい。ここでサッカーのもう一つの要素を取り上げてこれらと同時に語りたい。「ボール」だ。サッカーとはスペース、時間、ボールのそれぞれにおいて自由を獲得し優位性を確保することを目指すスポーツである、と私は考える。それは得点を奪い失点を防ぐこと、すなわち勝利に繋がる。サッカーをプレイする全ての者が勝利を欲する(「引き分け狙い」もあるがこれは相手の勝利を阻止する、という消極的な勝利への願望の現れである)以上、このサッカーの3要素はあらゆる戦術の基準となる。

 

ポジショナルプレーとは

近頃、ポジショナルプレーという言葉が流行っている。私は未だにその実態を把握できていないので、偉い人が書いた説明を読んで分かった気になろう。

www.footballista.jp

 完全に理解した←わかってない

ポジショナルプレーとは一つのサッカーの見方である。その主題は優位性(数的優位、質的優位もあるが、特に位置的優位)の追求にある。

やはり優位性だ。先述の通りサッカーは優位性を求めるスポーツであるから、記事にもあるようにポジショナルプレーがどのチームでも適用されることは必然だ。しかし、ここで触れられる数的・質的・位置的優位はスペース、時間、ボールの優位を得るための手段であり後者は前者に優先して扱わなければならない。なぜならそれらはゲームを行う両者で共有されるものであるからだ。ある女性を奪い合う2人の男性のようにスペースや時間やボールをやり取りするのがサッカーである。

鍵となるのはいわゆる“フリーマン”である。すなわち、マークもなく、次のプレーのためのスペースと時間を確保しており、自由にボールを受けることのできる選手だ。フリーマンを得ることこそが、ポジショナルプレーの真の目的であり、位置的優位の最高段階なのだ。

ポジショナルプレーは単純な原則に基づいている。サッカーというスポーツの道具がボールである以上、チームはボールを持ってプレーできなければならないというものだ。

スペース、時間、ボールの3要素の中でボールは他の2つとは少し異なる性質を持つ。スペースと時間に私たちは不可侵であるのに対してボールには作用することができる(だからこそ「ボールは友達」)から、ボールの優位は非常に分かりやすくボール保持の状態がそれである。ポジショナルプレーはボール保持を目的の一つとしながら、そこで終わらずにそれを利用することでスペースと時間の優位を得ようとするのだ。

 

ボールから考える

 攻撃の局面は守備の局面の準備である 

ペップはどこかで「守備のことを考えながら攻撃をする」みたいなことを言っていた気がするが、この直感に反するような考え方はボールを中心に見れば理解できる。

サッカーは一般的に以下の4つの局面に分けられる。

  1. 攻撃
  2. 守備
  3. 攻→守の切り替え(ネガティヴ・トランジション
  4. 守→攻の切り替え(ポジティヴ・トランジション

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しかしこれは人を基準に考えられている。ではボールを基準にサッカーをいくつかの局面に分けてみるとこうなる。

  1. 一方のチームがボール保持
  2. 他方のチームがボール保持
  3. ボールはどちらにも保持されない

ボールを保持する、とはつまりボールを自由に動かすことができる状態にあることを意味する。3つ目の局面は「空白の局面」であって、あまり考える必要はない。こうなった場合に選手ができることはボールのところまで走ってボールを回収するだけだ。残った2つの局面を見るとそこには局面の移り変わり、すなわちトランジションが存在しておらずそれらは連続している。世界が戦争と平和の期間を繰り返すのと同様に、試合中は2つの局面を行き来する。

 

?よく分からなくなってきた。

とにかく、ペップは考えるべき局面を2つに絞ることでそれらを同時に意識しながらプレーすることを可能にしようとした。つまり試合全体を見失わないようにしたいんだと思う。デッサンの時に先生に「引いてみろ」って言われるでしょう。あれと同じだよ。ボールというミクロも見て、試合全体というマクロも見る。

んーなんでこんなグダグダな結論になってるんだ。っていうかそもそもペップが考えてることなんて俺に分かるわけないだろ!