トイレの個室

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「印象」の印象派(デレステ考察)

 今回はデレステの現在のイベント曲「印象」について考察する。

 タイトルやmvを見れば分かるが、「印象派」という芸術運動をモチーフにした曲である。背景にはモネやルノワールらの絵画がこれ見よがしに置かれているが、mvのいくつかの点は彼らの理念にそぐわないように見える。


「デレステ」印象 (Game ver.) 白菊ほたる、浜口あやめ、三船美優 SSR

 まず、多くの印象派画家たちは、それ以前の画家が主にアトリエで制作していたのとは対照的に、戸外での制作を好んだ。しかし、「印象」でアイドルたちは美術室という屋内で絵画を描いている。

 アイドルたちが描くその絵はmvの最後に映し出される。そこに描かれているのは、各アイドルを象徴するようなモチーフだ。例えば、この曲のセンターである浜口あやめは忍者を自称するキャラクターなので手裏剣とクナイの絵がイーゼルに置かれている。この絵は全アイドルに個別のものが用意されていて、デレステのユーザーならば、それぞれがどのアイドルを表現しているか分かるだろう。

 

 19世紀後半フランスの芸術を支配していたアカデミーは伝統ある歴史画を評価していたのに対して、印象派の画家たちは世俗的な市民の日常風景をモチーフに選んだ。アイドルが描くモチーフは、そのような日常風景と呼べるものではなく、彼女たちのキャラクターを体現する記号である。受胎告知の絵画に白百合が描かれるように、浜口あやめは忍具を描くのだ。偶像的なアイドルの、ゲームキャラクターという虚構が、自身を象徴する記号を描く構図は実に歴史画の連想させる。

 

 では、逆にこの曲に印象派の思想を見出すことはできるだろうか。

 歌詞に着目すると、サビの

赤、青、黄色、白

知りたいよあなたの

色彩をすべて

笑顔の温かさ

透明な涙

隠し持った弱さも全部

 の部分は印象派絵画の技法を思わせる。混色をなるべく避け、大胆な筆致で絵の具をキャンパスにのせるように、人格を構成する要素をひとつひとつ取り上げている。このパートはボーカルとピアノ、ヴァイオリンと音の数を抑えている。これも音の重なりよりも要素としての音そのものを提示している。

橙、藍、緑、紫の彩り

溢れ出す光

混ざりあうように

確かめるように

あなたのこと、描くよ

 その次のパートでは先に挙げられた原色が混色されているが、ここでは単に混色したと見るよりも、同時対比などで色が「混ざりあ」ったように見えていると解釈すべきだろう。音を聞いてきてみても、前パートにキックとスネア、ヴァイオリンのメロディーが加えられて音の重なりが豊かである。また、mvではここから時間が夕方に変わる。昼と夜が混ざり合い刻々と色彩を変化させる夕方を描いた絵画は印象派に少なくない。

 このように見ると、この歌詞は人の個性を光や色彩に例えながら捉え、表現しようとしている、と受け取れる。また、「ように」や「みたいな」という直喩表現が多く、この曲は全体的に印象派の方法を比喩として用いていると見るべきだ。それでは、先述のmvの非-印象主義的な部分をメタファーとして捉え直してみよう。

 映像作品において、部屋という閉鎖的な空間は心の内を暗示することがある。そうすると、部屋の中で絵画を制作することは、心に焦点を当てそこに描くべき対象を見出すことを意味する。「あなたの隣」「二人きりの美術室」という歌詞から連想するに、とある人物と人間関係あるいはその人物と接して浮かび上がる感情を表現しようとしている。

 アイドルが自分を象徴するモチーフを絵に描くためには、自身を見つめアイデンティティについて考える必要がある。そうして、彼女たちのほとんどが自分を表すものとして日常的に目にするものを選択した。毎日のように見た"それ"が心に刻み込まれ、アイデンティティの一つとなったのだろう。印象派の画家たちは外界の日常風景を知覚や主観に任せて描いたが、アイドルたちは心象風景や主観そのものを対象にしている。これが「印象」から読み取れるデレステの「印象主義」である。

 

 最後に、室内での制作や歴史画からの影響という言葉を聞いて、私はエドガー・ドガを思い浮かべる。彼の絵画は印象派に分類されるが、印象派らしくない上記のような特徴を持つ。ただ、「印象」のmvについて語る上で最も注目すべき点は彼がバレエ、特にその舞台裏を描いた作品が多いことだ。ドガがそのような作品を制作していた時代のフランスのバレエは現代のものとは異なり、ロマンティック・バレエと呼ばれる妖精や悪魔が登場する幻想的なものであった。このバレリーナデレステのアイドルを比較すると、架空の存在であるキャラクターはまさに非現実の妖精のようだ。そして、その舞台裏と言うと、声優という演者がすぐに思いつく。しかし、ここはあえて「印象」がそうしたように、内的世界にそれを求めると、ユーザーの想像力がアイドルの存在を成り立たせていると言える。アイドルは私たちの心が見せる幻想なのだ。

 mvのラスト2カットでアイドルと絵の並びが反転する。アイドルを映したカットはイーゼルの高さにカメラを置き、逆に絵のカットのカメラはアイドルの目の位置に設定されている。つまり、映像の最後で私たちはアイドルと視線を共有するわけだが、そこに見えるものは、既に述べたように、日常的に見ることで心の中に自身を体現する記号として定着したものである。これと同じ現象が画面の外側でも起きていて、画面の中に映るアイドルは、これまでユーザーが何度も見ることによって自分のアイデンティティと半ば「混ざりあ」ってしまっている。だからこそ、アイドルたちは画面の外側に向かって「あなたのこと、描くよ」と呼びかけてくるのである。