トイレの個室

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カワイイは作れる。アイドルも作れる。

前回同様デレステの話です。今回の総選挙における夢見りあむから出発してアイドルの存在や意義について考え、それを踏まえて1曲紹介したいと思います。 

 

 

プロデューサーはアイドルの夢を見るか?

先日、第8回シンデレラガール総選挙の結果が発表された。中間発表で3位に位置していた新アイドル・夢見りあむが最終結果でもその順位をキープしたことは多くの人を驚かせた。他のアイドルの努力を否定するようにも受け取られる彼女のコメントは大炎上とまでは行かないまでも、大きな話題になった。実際、現実世界においても長年の努力が才能ある人間によって簡単に否定される事態は少なくないので、今回の総選挙で起こった現象にはとても興味を惹かれた。私は、同じような状況が現実のアイドルで起こっていた場合はどうなっていただろうか、などと余計に頭を働かせてしまう。例えばAKBグループの総選挙で加入してから数ヶ月にも満たない新人が上位にランクインし、りあむと全く同じ発言をしていたらそれはもう大バッシング間違いなし、ネットで袋叩きだ。

何故りあむの発言は(多少の反感を買いながらも)ファンに受け入れられたのか。ネットを見ると、彼女の発言は「夢見りあむ」というキャラクター性を如実に表していると言ってそれを評価する人がいる。なるほどファンは既に彼女の人格を理解していたから発言の真意を読み取れたのかもしれない。ただし、考えてみてほしい。「夢見りあむのキャラクター性」とは?「彼女の人格」とは?私たちは本当にそれを理解しているのだろうか?そもそもそんなものはリアルに存在するのだろうか?

バンダイナムコデレステのアイドルをどのように作るのかは知らないが、きっと偉い人たちが会議を重ねてアイドルが生まれたのであろう。そしてイラストレーターや声優、その他多くの人の協力によってアイドルたちは成り立っているが、そこには所謂「中の人」が存在しない。つまり彼女らのキャラクター性はある個人に由来しない。それこそが「中の人」が存在するVtuberや、自我を持って生きる私たちとの明確な差異である。デレステのアイドルのアイデンティティは内から生じるものではなく外から形成されるものであるので、そこには絶対的な基準が無く曖昧に揺れ動いてしまう。キャラクターは言語のような性質を持ち、私たちは他者との相互な信頼の上でそれを使用してやり取りする。キャラクターは現実に存在せず、私たちはそれが存在するかのように仮想しているに過ぎない。

ソシャゲへの課金に対する「サービスが終了したら全部無駄になる」という批判はよく目にするが、ゲームのキャラクターが実体を持たず幻想的な存在であると知れば反論することは難しい。私たちは「夢見りあむが存在する」という夢を見ているのだ。そんな夢に入れ込むことに果たして意味はあるのだろうか?

 

反-「みんな違ってみんないい」

 デレステはゲームプレイ中の背景でアイドルのパフォーマンスを見ることができる。前回記事ではそれが生み出す効果をポジティヴに捉えたが、今回は別の側面から考察しよう。

ゲーム中のパフォーマンスは全キャラクターのヴァージョンを見ることができる。 ただしどのアイドルでプレイしても楽曲は変わらない。すなわち、ユーザーが選択したアイドルは運営が用意したアイドルの役割を代わりに演じることになる。これを単なる楽曲のカバーとして考えるのは危険だ。歌声や振り付けといった楽曲の要素はオリジナルのアイドルのものであるにも関わらず画面上に存在する別のアイドルにそれを乗っ取られ、その代理のアイドルも自身の性質を求められることなくオリジナルに準じなければならない。ここでは同時に2人のアイドルのアイデンティティが否定されている。全アイドルを同等に扱うとある部分で彼女らの個性を否定することになり、それは「自分じゃなくてもいい」という現実の私たちにも通ずる不安に行き着く。

代替可能性を持つのはアイドルだけではない。現実のアイドルファンに対して「アイドルはお前なんか見ていない」という人がいる。実際にそうであるかどうかはアイドル本人に聞かなければ分からないが、ゲームのアイドルにおいてはそれを否定することはできない。前述の通りアイドルはそもそも存在しないのでファンを見ることも当然不可能だ。

「コミュ」という機能によってゲーム内でアイドルと会話している気分を味わう人がいるかも知れないが、そのテキストをよく見て欲しい。テキストではユーザー名が表記されているものの、アイドルのボイスを聞くとその部分は「プロデューサー」に置き換えられている。勿論これはユーザー名のボイスを収録することが現実的ではないための処置だが、それでもゲーム内でのユーザーの扱いがここから分かる。運営が想定して予め用意された「プロデューサー」像に各ユーザーが当て嵌められている。つまり、アイドルはどのユーザーに対しても平等に反応していて、そこにユーザーの個性は求められていない。

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ユーザー名「タケルさん」は発音されず、「プロデューサーさん」と呼ばれる

さて、前章でアイドルの存在は空虚であることを確認し、この章で私たちユーザーが「プロデューサー」という全体のうちの一つに過ぎないことを見た。こうなると私は何の為にデレステをプレイするのか、そんなことに意味はあるのか、と悲観的に考えたくなる。そうして立ち止まった私たちを救うのもまたデレステなのである。

 

Kawaii make MY day !』をすこれ

 『Kawaii make MY day !』は私のお気に入りの楽曲の一つである。この曲については次のブログを参考にされたい。

asteriskcrown.hatenablog.com

 

www.youtube.com

要はオシャレしてカワイくなることを自発的なものと捉え、着飾ることに内面が伴わないことをある程度認めながらそれも含めて自分らしさとして肯定する曲である。

 鏡の中の自分が「変わりたい!」そう言ってるから

 オシャレをしたから会いたいな

この曲においてオシャレしてカワイくなることの目的はオシャレしてカワイくなることである。これはオシャレが自己目的化し独りよがりだという批判に晒されかねないが、それでも曲中でカワイくなる為の努力やそれを支える自分の気持ちを何度も肯定する。なぜなら、彼女たちは決して無責任に独りよがりではないからである。

 『画面の中の女の子、カワイすぎ大問題』です

 この歌詞は単純に彼女たちがテレビに映るアイドルやモデルに影響を受けたと読むこともできるが、ゲームをプレイする私たちから見れば「画面の中の女の子」とは彼女らそのものである。そうすると、彼女らが自分の存在が画面の中にある虚構だと自覚したことになる。オシャレすることが虚飾となり得ることを認めるように。

 目線上げて めちゃcute smile!

 歌詞通りに目線を上げてみると、彼女らがパフォーマンスする女の子の部屋に見立てたステージの天井が無いことに気が付き、それがつくりものである事実を突きつけられる。それでも「めちゃcute smile」を浮かべる。自分の存在や行動が偽りのものであるとしても、それを認めた上で肯定する。実体のないアイドルが自己をメタ認識して悩む様子は彼女らをより身近に感じさせ、そんな彼女らの自己肯定は私たちに大きな勇気を与える。

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 カワイくなる為に努力することや自分をそのように動かす気持ちこそがアイデンティティであると伝える彼女らの前でアイドルの虚構性を悲観的に嘆くのは不毛極まりない。今や「画面の中の女の子」に動かされた気持ちや彼女らのための私たちの努力は誰に否定されようか。(おい!りあむ、聞いてるか!)

デレステは総合芸術である

ガールフレンド(♪)、ラブライブ!バンドリ!ナナシス…とスマホのアイドル系リズムゲームを渡り歩いてきた私が行き着いたのがアイドルマスターシンデレラガールズスターライトステージ、通称「デレステ」である。私は自慢できるほどリズムゲームを数多くはやっていないが、そんな中でも個人的に随一と目するこのデレステを今回は分析する。

デレステの魅力として挙げたいのはタイトルにもある通り「総合芸術」とも呼べる幾重に重なるメディアである。勿論、アニメ化や漫画化、実際のライブ公演等のメディアミックスも注目すべきでありそれにも触れたいが、それは冒頭で挙げた他の例にも当て嵌まるのでここでは割愛する。ゲームの外側では無く内側に目を向けた時、デレステが他の類似のゲームと一線を画す要因となるのはどこか。それは音楽と文脈と身体の密着性である、と私は言いたい。

そもそもデレステとは何かを説明しなければならない気がするが、あいにく私もニワカなのでここではアイドルマスターシリーズの一部であるとだけ言っておくので、ググってください。

ゲームの内容を簡潔に表すと、リズムゲームをプレイしてアイドルのストーリーを解放し進めていく。ゲームをプレイすることでストーリーを進める方式は今やソシャゲ界隈では至る所で目にするが、アイマスシリーズがユーザーとアイドルとの関係性に主眼を置く以上必然的にデレステでもこの方式を採用する。ただ、デレステはそれだけでは終わらなかった。この方式においてゲームはストーリーを進める為に存在するがそのゲーム中はストーリーは展開されないというジレンマを抱える。しかしデレステはそれを打破した(アクション映画においてアクションシーンはスペクタルとして必要だが、その間はストーリーが進まないという問題に対して『マッドマックス フューリーロード』が一つの解を提示したように)。

ここまで長々と前置きを書いたのでそろそろ具体例を見ていこう。

2019年5月現在のイベント曲『無重力シャトル』の難易度Master+においてアイドルが右腕を降ろす振り付けに合わせてノーツが降りてくるシーンがある。(手とノーツが重なっていたので私は初見でそれを見逃しミスした。)ここでは振り付けを踊るアイドルの身体(3Dモデルの仮想的なものだが)とゲームをプレイする私たちの身体がシンクロする。この一致は否応なくユーザーのアイドルに対する親密度を高める。

ユーザーの身体は一人のアイドルと重なるだけではない。『Fascinate』というデュエット曲の中でノーツが2つほぼ同時に降りてくる場面がある。それに対して私たちはまるでピアノで装飾音を演奏するように「ポロン」とタップしなければならない。ほんの僅かにズレて鳴る2つの音が限りなく近くに居ながら重なることはない2人の関係性を想像させる。ここでノーツをタップする2つの手(あるいは指)が2人のアイドルに見立てられている。私たちは手を動かしてゲームをプレイするだけなのにそこに2人の少女の関係性を読み解いてしまうのである。

次は歌詞に注目しよう。先程触れた『Fascinate』の歌詞について以下のブログを見つけた。

www.google.co.jp

「ちとせのヴァンパイア要素が強めに出てますかね、ただ千夜の要素が薄く感じます。」

 

ここでこの曲が装飾音のようにノーツを配置しているということを思い出してほしい。私は音楽に明るくないが、友人によると装飾音はアクセントを付けたいときや繋がりを自然にしたいときに用いるそうだ。つまりここでは千夜がちとせを強調する効果が得られる。または、この曲が新アイドルの新ユニットのものであることを踏まえると、この2人をユニットとして並べることでデレステという大きな流れにスムーズに入れるようにしているとも考えられる。(こうなると金髪と黒髪の両人があたかもピアノの白と黒の鍵盤のように対比されていることに気づく!)

 

ここまで見てきたように、デレステリズムゲームをプレイする私たちの身体にキャラクターの身体やストーリー、歌詞の意味を重ねている。他の類似のゲームのようにストーリーの展開を全てテキストに任せることはない。アイドルが踊るように、楽器を演奏するように、ストーリーをなぞるようにゲームをプレイする中で文脈を体感しつつそれを身体の内で膨らませる。そうして自分の身体を介して届けられる物語はより直接的な感動を引き起こす。私たちはユーザーあるいは「プロデューサー」としてゲームをプレイしつつも時にはアイドルとまさに一体化し、その瞬間デレステは端末の中だけでなく私たちの身体の中にも存在する。